頭の中の整理のためのブログ

日常で感じるはてなを、自分なりに論理立てる訓練の為の記録

子育ては誰のためにやるのかについて

子育ての本を幾つか読む中で、考えさせられる本に出逢ったので、頭の整理として記録。

 

TIGER MOTHER(斎藤孝 訳)

タイガー・マザー

タイガー・マザー

 

 

(訳者あとがきより)

これは中国系アメリカ人の子育てを通して描かれた母親と二人の娘の物語であり、欧米と東洋の文化および教育の衝突の話です。

著者のエイミー・チュアは独自の教育方針を貫く二児の母。タイガー・マザーというタイトルが示すように、虎のように強くてエネルギーにあふれた女性です。そして自分自身の子どもに「一人でも生きていける強さ」を持って欲しいと考え、千尋の谷に我が子を落とす獅子のような厳しさで育てます。


著者がこの本をが書いた理由の一つは『中国系アメリカ人が米国内の様々な面で存在感を出していることに危機感を感じた(純粋?)アメリカ人が中国式のスパルタ子育てに対して批判的なスタンスを示すこと』に対する反論ではないかと思います。
中国式スパルタで教育を進め、成功と挫折を味わった著者が『欧米流と中国流の子育てのどちらが良い悪いではなくて、双方が違うということ』(で、自分は中国式がいいと信じていること)を言いたいがために書き始めたものだと私は感じました。


著者のいう中国流子育てとは以下のような内容です。

中国の親がよくわかっているのは、何をするにしてもうまくなるまでは楽しいことなどないということです。そのためには努力が必要ですが、当の子どもたちは放っておけば努力などしませんから、親が子どもたちの希望など無視することが重要なのです。

前半はいいのですが、後半はなんという親のエゴ、、と思いながら読み進めていくと、、

 

中国人の親はどのように自分流をやりおおせてきたのか、私なりに長い間、一生懸命に考えてきました。それで出た結論が、中国人の親と欧米人の親の考え方には三つの相違点があるということです。

①欧米人の親は子どもたちの自尊心を極度に心配すること
②中国人の親が子どもは全てにおいて親に恩義があると考えている
③中国人の親は、子どもたちの望みや好みをすべて踏みにじる結果になっても子どもにとって何がベストなのか解っているという自負がある

(中略)

誤解しないでくださいね。中国人の親は子どものことを大事に思ってないということではないので。むしろその逆です。育児モデルが180度違うということなのです。

 おそらく、この部分が筆者が最も伝えたいことの一つだと思います。

 自分でも自分のやり方が普通でないことの自覚はあるけど、子どもに対して愛情がないと揶揄されることについては明確に否定したいんだと思います。

 

欧米人の親は子どもの人格を尊重しようとし、子どもたちが真意情熱を傾けられるものを見つけるように進め、その選択を支え、励ましの言葉をかけ、そういった環境を整えてあげようとします。対照的に、中国人の親は子どもを守る最善の方法は、彼らのために将来を用意して、子どもたちが自分たちに何ができるかを気づかせてやり、才能や勤労習慣、それに揺るぎない内なる自身で身を固めることだと思っているのです。

なるほど、、。確かに、そう言われると、中国式も悪くないような気がしてきますし、これって、日本の古来の教育方針にも近いような気がします。


ただ、著者の異常なところは、それを誰にでも適用するということです。本書の中の笑える場面として、飼い犬のしつけについて、夫婦(著者は女性ですので、旦那様と)喧嘩をする場面があり、その中で、著者はこう言います。

「ソフィア(著者の長女)やルル(著者の次女)に対して、あなたはどんな夢を持っているの?そんなこと、今まで考えたこともないんじゃない?あなたのココ(著者の飼い犬)に対する夢って何なのよ?」

 犬に夢?著者の旦那様もさすがにこれには笑ってしまったようで、これをきっかけに喧嘩は終わります。

ただ、著者も変化があるようで、後半では犬についてこう書かれています。

ココは動物であり、ソフィアやルルと違って、生まれつき何かの能力に恵まれているわけではありません。爆弾処理班とか麻薬摘発チームで活躍している犬もいるけど、ほとんどの犬は仕事を持ったり、特殊技能を身につけていたりしません。ですが、それでも犬たちは十分に幸せなのです。

 

 

著者の子育ての結果、長女と次女は異なる成長をしました。長女は中国式にうまくはまり、成績優秀、ピアノでは数々のコンクールで優勝しながらカーネギーホールで演奏する栄誉を勝ち取ったそうです。
一方、次女は成績優秀でバイオリンで神童と言われながらも、母親の子育て方針にことごとく立ち向かう『中国式ではない』子供として成長します。

 

ジュリアードのオーディションに落ち、母親が課した責任を無視しそれでも本人に重大な問題が起こらないこと、つまり『母親のいうことを聞かなくても大丈夫なこと』を認識するようになった次女はますます反抗的になっていきます。

 

そこでその原因の一つを著者は以下のように表現しています。

中国式子育ては失敗に直面したと聞いその弱さを露呈します。失敗する可能性を最初から計算に入れていないからです。中国モデルは目的の成就で成り立っています。それが自信と猛勉強の好循環を生み、さらなる成功につながっていくのです。

ここでは、私は筆者と異なる理解をしています。

 

著者は『次女は深刻な挫折があったので中国式子育てが頓挫した』ということをバックアップするために中国式子育ての弱点を記述しているのだと思います。

私は次女が筆者の子育て方針に反抗するのは『自分に選択肢がない』ということに対する本能的な抵抗だと思います。

 

何か成功をした時に『それが自分の選択だった』という前提が重要な人種がいると思います。(わたしはその人種です)そういった人種は、誰かに強要されて得たことの成功は、それはそれで嬉しいんですが、心の底からは喜べない。次女さんはそういう方なんじゃないかと思います。

 

そして、次女と母親は決定的な口論をします。

この部分について、著者は非常に辛い思いで書かれたのではないかと推察します。

「あんたは私を愛してなんかいないんだわ」ルルは吐き出すように言いました。「自分でそう思っているけど、そうじゃないのよ。あんたのそばにいるだけでむかついてくるわ。あんたが私の人生を壊したのよ。あんたのそばにいるなんて我慢できない。それがあんたのお望みなんでしょ」

私(著者)は喉の奥から何かが込み上げてきました。ルルは構わず続けました。

「あんたは『たちの悪い母親』よ。自分勝手な。誰がどうなってもかまわないのよ。私に感謝の気持ちがないなんて言っておきながら、結局あんたがやってることって、私のためって言いながら全部自分のためじゃない」 

 なんということでしょう。。。(涙)


やり方に特徴はあるものの、母親から子どもへの愛情は本物だったと思います。中国式子育ての場合、厳しさは愛情と信頼の裏返しなので、自分の全てを注ぎこんで愛している娘にこう言われた時、著者は文字で表現できることの100万倍辛い思いをされたんだろうと思います。僕ならその場で泣いちゃうかもしれない。。。

 

この場面から、著者は次女に対する子育ての方針(戦略)を変更せざる得なくなります。
そして、次女はバイオリンに打ち込むことを辞めてテニスに情熱を傾け、下手でも楽しみ、自ら進んで練習し、中学生として唯一高校のチームに選ばれるなどの頭角を現していきます。

※ここで最初に引用したこと(うまくなるまでは楽しくない、みたいな)が、当てはまらないことがあるということを著者が学んだと思います。

 


著者の極端な育児方針に対して、最大の理解者である旦那様からも、同様の観点から問いかけがあったようで、私はここに著者と自分の決定的な違いを感じます。

よく私にぶつけられる質問があります。「だけどエイミー、教えてくれ。これって一体誰のためなんだ。君の娘たちのためなのか、それとも自分自身のためなのか」。しかし、これは典型的な欧米流の質問だと思います(なぜなら中国人は、子どもは自分の分身だと考えているからです)。

私の母親も韓国人2世なので、筆者と同じアジア系移民の母として、ちょっとタイガーだっと思います。そして私にはそれが合わなかったと感じています。

そういった私の背景を含め『子供を自分の分身だと考えている』という点に自分との違いを感じました。ただもしかしたら、母親だからこそ持てる感覚なのかもしれないと男親として感じる側面もあります。

 

 

本書を読みながら、自分の子供に対する期待や立ち振る舞いを振り返りました。

 

私が子供に対してする期待は、著者が飼い犬に対してする期待に相当近いと感じます。彼らが幸せでありさえすれば、その形はなんでも構いません。
自分が自分の選択肢にこだわる人種だからこそ、幼児期からの英才教育にも全く関心がありません。
ただこの本を読んで自分と逆の個性もあり得ることを考えると、うちの子たちの中にも幼児教育をしたほうがいい子もいるのかもしれないと感じることができました。

 


また、本書を通して『子育てとは親がやりたいからやるもんだ』ということだと感じました。

 

幼児英才教育も、学歴偏重教育も、超放任方針も、それぞれに良い面・悪い面があり、何が正しいというよりかは、それぞれの子どもにとってどれが最も合うかが大事なので親がそれぞれの子どもに合わせて方針を合わせてあげるべきだ、
ということではありません

 

そもそも、それぞれの子どもに何が最も合うか?をどう判断すれば良いんでしょうか?
結果としての学歴や、職業、経済的成功で、子育ての成功を判断していることが多いですが、本当にそれが子育ての成功なんでしょうか?

 

私はどんな状況であれ、子どもたちが経済的にも心理的にも自立すれば、それ以上はおまけのようなものじゃないかと感じています。幸せか幸せじゃないかも、本人たちがすすんで選んだことなら、親がどうこう言う筋合いはないでしょう。

ただ、個人的にはこれからの世の中は『経済的にも精神的にも自立する』ということが、今よりも難しくなってくるので『自分の頭で考え抜いて、自分が納得して決める』という力は必要だと感じています。

この点だけは子どもに伝えていくつもりです。

 

ただし、それすらも、それが本当に子どもたちのためになるのかどうかという点については、確かではありません。そういう観点から考えると、今、自分がそう信じているから、親として信じた姿になった子どもを見たいと思っているんだと思います。

なので繰り返しになりますが、子育ては子どものためにやってるんじゃなくて、親がやりたいこと(自分が見たい将来を見るための努力)をやってるだけと、私としては結論します。

 

なので私は、子育て方針について何が正しいかという議論は意味がないと思います(統計としてデータを示すことはとっても価値があると思いますが)。親が子どもに何を望もうか、それは公序良俗に反しない限り、個別の家の勝手だと思うからです。

 

その観点で考えれば、もし中国式スパルタ育児法に対し米国内で批判的な風潮があったとしても、それは相手にする意味がないので、著者のような聡明な方がこの本を書こうと思った本当の意味はなんだったんだろうか、というところに思考が集中しています。

 

そして今はなんとなく、この本は娘さんたちへの愛を表明する遺言のような気がしています。

 

以上です。

待機児童の解消が進まないのは、業界内の文化と受益者の思考停止が理由なのではないか、について。

今、新規事業として保育園を妄想しています。
プランはまだ全然ふわふわしていますが、困っている人が多いので、なんとか力になりたいです。

 

そんなことを考えてるので、自分の子供が受けている保育に関しても、いちいち考え込んでしまう毎日です。


さて、今日は保育園の発表会です。
子供たちが歌をうたったり、お遊戯をしたりするのを両親や祖父母が見に来てます。
何故か、昔働いていた保育士さんまで来てます。

 

こんなタイミングなので『この発表会が本当に必要か』を考えてしまいます。

 

歌が歌えるようになったり、お遊戯ができるようになったりすることは、子供の健全な成長にとって、すごく重要なことだと思います。
目標に向かって、お友達と力を合わせることを学ぶのもとても重要でしょう。
それに、一生懸命に練習の成果を出している我が子を見ると、嬉しさや誇らしさが込み上げてきます。
先生と子供、子供同士の関わり方や信頼感が生まれている様子を見ることも大事だし、同世代の子供たちと一緒に自分の子供を見ることで発達の進み具合を見るのもいいことでしょう。

 

が、、

 

それを、休日に設定して保護者を呼んでやる必要があるんでしょうか
目的はあくまで、子供の健全な成長として、です。

 

僕は、必要ないと感じます。


個人的に最も気になるのは先生方の疲弊です。
日頃から就労時間も長い体力仕事なのに、それに加えて発表会の準備とか大変だろうし、さらに、休日まで丸一日駆り出されて、大変過ぎないかと。

何より、楽しそうにやっているのが不安です。社会善に関わる事業にありがちなことだと聞いてますが、効果的に目的を達成することより献身的に奉仕すること自体が目的化してないか、心配です。

先生方は来園した保護者に対して
「来てもらってありがとうございます!」
と満面の笑みで出迎えてくださいます。

いやいや、、何をおっしゃいますやら!感謝するのはこっちですよ、先生。いくら感謝してもしきれませんよ。

 

乳児さんに演目があることも疑問です。
まだ自我がない子供のヨチヨチ歩きに寄ってたかって拍手することに何の意味があるのか、親の立場としてよくわかりません、、。
号泣してる子を舞台に上げておくのに何の意味があるのか、、。

 

よくよく考えると、運動会も同様です。いや、運動会の方が悪質かもと感じます。
発表会と同様の効果があるでしょうが、運動会の方が先生方の負担が大きいのでは、、と想像します。場所代や道具代などの直接的なコストも大きいでしょう。
発表会よりも泣いてる子が多いし。先生だけの演目があったりする。。それ必要?


個人的には発表会や運動会をすること自体はいいんですが、必ずしも親を呼ぶ前提でする必要はないのではないかと思います。
親を呼ぶ必要がないので、休日に設定する必要もないと思います。

 

発表会や運動会は、近くの保育園と連携して子供同士で発表しあったり競い合うことで同様の効果が出せませんか。
日時は金曜の午後に設定して『親も来ていい』という位置付けにしたら、負担が減らせませんか。
子供の発達の具合は、日頃から子供を見ることで知れませんか。
どうしても先生やお友達との関わり方が見たい親がいたら、それは、日常の保育参加で目的を達成できませんか。


自分は保育の専門家ではないので、わかってないことの方が圧倒的に多いと思います。
でも、二人の子供を小学生になる歳まで育て、あと二人の乳幼児を抱えてる親として、今の保育園のあり方に疑問を感じざるをえません。


ただ、決して、保育園を責めているわけではありません。
保育園とはそういうものだという思考停止が、自分を含めた世の中にあるのではないかということに危機感を感じています。

 

業界内の『奉仕が目的化した文化』と、奉仕を受ける我々の『保育園とはそういいうもの、という思考停止』が相まって、保育士を追い詰め・疲弊させ、一度引退した保育士が職場に戻る気力を無くし、結果として業界は常に人手不足、待機児童の解消が進まず、、
ということになってないか。。

 


答えはまだありません。

 


発表会・運動会に限らず、これから保育のことを勉強し、色々な人の意見を聞かせてもらいながら、自分なりの理想的な保育について、答えを見つけたいと思います。

 

今のところは以上です。

 

忘れ物の天才の特徴。12選。

最近、本当に忘れ物がひどくて、子ども達にも「パパって、忘れ物の天才だね!」って言われるので、自らの忘れ物っぷりを、ざっくりと12個で整理。

 


1.原則、小物は定期的になくす。

ペンと小銭入れは絶対に半年もたない。スティックノリと消しゴムは使い切ったことが無い。リップスティックもそう。
絶対なくすので、手袋・マフラー・帽子・名刺入れ・傘は高価なものを買えない。


2.家を出るときになって、鍵が見つからない。

家を出る直前になって鍵が無いことに気づいて、家を出られなくなる。
前の日に来てた衣服のポケットに入ってたりする事が多いけど、まれに洗濯されてたりすることもある。


3.改札に差し掛かった時に、定期を家に忘れてることに気付く。

定期っぽいふくらみがあると思ってたところ(ポケット)にふくらみが無いと、敗北感が拡がる。
改札前で、前ポケットとかケツポケットとか胸ポケとかを、パンパン叩いている人を見たら親近感が湧く。


4.日常的になくすものを無くそうと置き場所を決めるんだが、どこに何を置いてたか忘れる。

他人に指摘された改善方法を試してみるんだけど、そもそも向かないので、すぐに何やってたかを忘れる。
で、また小物をなくす。


5.財布とか鍵とか定期とか、外で落としたりなくしたりしたこと数知れず。

後でその物が返ってきて、その時のショックを忘れる。
外出時は荷物はなるべく一つにまとめておかないと、自分が何をなくすか想像つかないのでこわい。


6.家に帰ってきた時に、家の鍵を会社に忘れたことに気付く。

冬の深夜だと、ピンポンを押そうか外に泊まろうか本気で悩む。


7.「忘れものはするけど、他で優れてるからいいんだよ~。」と他人には強がる。

それとこれとは別問題なんだけど、悔しいから自己正当化する。


8.同じことを何度も聞く。

興味がないとか冷たいとか、勘違いされるけど違うんです。覚える能力が足りないんです。努力します。すいません。


9.海外出張に行くのに、パスポートを持たずに空港に着く。

会社で語りつがれる笑い話を提供する。


10.アプリでは解決できない。

TrackRとか買ってみても、効果が無い。

 

11.他人の忘れ物に寛容になる。

他人の忘れ物を責める気持ちより、自分が忘れ物をした時に許してもらいたいという下心が先行する。


12.自分の子どもに忘れもの癖が遺伝してる。

子どもに自分の一部を見てるような気がして「それも可愛いから、まぁいいか。」と思っています。

 

以上です。

大人の役割とは何か。

ある学童指導員の講話を聴く機会があって、聞いてて本当に耳が痛かったので、備忘と頭の整理のためのメモ。

 

子曰く、、

・子どもたちが『ただいま~!』と当たり前に帰ってくることが一番の幸せ。

指導員を十数年やっていると、起こってはいけない辛い事件に出逢ってしまうことがある。
ふとした瞬間にフラッシュバックして、悲しくて涙が出そうになってしまうこともある。
今思い返せば、当時の子ども本人やまわりから、少しずつ「助けて・・」っていうサインが出てたんだと思う。
若い時の自分はそれに気付けなかった。言い古された表現だけど『事故が起こってから後悔』した。


だからこそ、もう二度とそういうことにならないように、目の前にある当たり前の幸せを守ることに全力を尽くしたい。
そのために、昨日と今日の子どもの違い、すなわち『子どもから出るサインの変化』を、感じられる指導員でいられるよう努力している。


→今、手に入れている環境を『いつまでも変わらない前提』として認識してしまう事はよくあることだと思う。
本当は『これまでの自分の行動や、関係するいろいろな経緯が絡まって、今はたまたまこうだ』という事なんだろうなぁと思う。
講師の姿勢を見習い、今ある環境に感謝して、同時にそれをより良くしていくことに努めたいと思った。

 

子曰く、、
・我々が求められているのは『向き合う』こと。

子ども達を叱って、大人のいうことをきかせることが我々の仕事ではない。
子ども達のいうことをなんでも聞いてやるのも、我々の仕事ではない。

 

子どもたちの言動を善悪で評価して、片づけてしまうことは簡単。
人は弱いから、複雑な問題や難しい問題を抱えると、単純化して納得して(楽になって)しまいたくなる。
でも、子ども達も家庭も、それぞれの事情を『単純化して納得』して欲しいとは思っていない。
それに、独りよがりに単純化して納得して(自分は楽になって)も、当事者の課題は何一つ解決されない。

 

学童指導員で解決できることに限界があることは事実だ。でも、生活の場(家・家族)ではなく、学習の場(学校・先生)でもなく、遊びの場で一緒に過ごしている大人だから作れる子ども達との関係はある。
だから我々だからこそ出来る役割があると思っている。

子どもたちの言動は、それぞれの事情を抱えながら自分たちだからこそ出してくれる「こっちを向いて!」というサインだと受け止めた方がいい。安易に片づけ(て、自分だけ楽になら)ず、子ども達や家庭に向き合っていくことこそが我々の役割だと考えている。

子どもや家庭と向き合うことは辛いこともある。それは、自分と向き合うことにも繋がるからだと思う。


偉そうなことを言っているが、自分は今でも、声を荒げてしまうこともある。悩んでしまうこともある。そんな時は子どもに乱された心を自覚して『(自分も)まだまだだ』と感じる。それが自分を高める動機になっている。


→課題を単純化したり分解したりして解決策を探ることは、ビジネスを進める上では必須なスキルだと思う。
 それが有効だから、人間関係や家庭が抱える課題の解決とか『本来の目的がそこでないこと』にも当てはめてしまうミスを、僕はしがち。。
 自分も安易に楽になろうとせず、課題に向き合う姿勢を取っていきたい。

 

子曰く、、
・コミュニケーションの悪循環と好循環の要因は自分にある。

【悪循環】
 言ったってどうせ分からない、から、言わない。
 言わない、から、更にわからない。
 わからない、から、不信感が生まれる。
 信頼関係が出来てないと、何を言っても伝わらない。
 更に、何を言ってもわからない、となる。

【好循環】
 言っても伝わらないこともあるけど、言わないと伝わらない。
 伝わってなければ、言い続ける。
 伝わってなくても、接点を持ち続けることで信頼関係が生まれる。
 信頼関係が出来ると、言わなくても伝わることも出てくる。
 言わなくても・・に甘えず言い続けることで、更に伝わるようになる。

 

子供に対しても保護者に対しても同じ。一緒に働いてる同僚に対しても同じ。『分からない』と『伝わらない』の違い。どこに、誰に、課題があると認識しているか。


→反省します。。


最後にその方は『子ども達が「自分はもっといい人間になれる」、「自分はいい大人になれる」という希望を持ってもらえるようにしたい。』とおっしゃっていて、それって学童指導員だけじゃなくて、大人全員の役割だなぁと思った。

 

最近、自分は子ども達と向き合ったかな、妻と向き合ったかな、なんてことを妄想した一日でした。


以上です。

個人によるスマホ保有は本当に必要か?

自分のスマホを洗濯してしまった(2回目)

僕が脱いだ服を妻が気を利かせて洗ってくれて、その中にスマホが残ってた。。

 

今後、自分が携帯を脱衣に入れたままにしないようにできる気がしないし、妻に洗濯を任せないわけにもいかないので、このままだと今後も同じことが起きる可能性が高い。

一回あたり数万円かかってしまい経済的にもったいないし、データ紛失やかかる手間も避けたいので、

今回をきっかけに、そもそも自分が個人としてスマホを所有する必要があるか頭の整理。

 

携帯電話に関する前提としては大きく三つ。

 

【仕事用の携帯は別にある】
・会社用の携帯は会社から提供されている。

 

【MYスマホ電話機能はほとんど使わない】

・電話をする場面は(ほとんどないけど)主に以下の順の多さ。
 ①食事などのお店の予約をする。←週に1回かそんなにも無いくらい。
 ②誰かの携帯を探すためにかける。←同上
 ③家族で外出して、家族とはぐれた時に連絡を取り合う。
 ④会社用携帯を使えない時に代替としてつかう。
 ⑤実家に電話する。
  ※③以降は月に1度あるかないか以下。②⑤は自分の携帯でなくても可。

 

【MYスマホの主な使い方はインターネットとカメラ】
・使用状況は主に以下。
 ⑥メール、LINE、SNSなどのコミュニケーション←毎日。必須機能。
 ⑦情報収集や買い物のインターネット←ほぼ毎日、必須機能。
 ⑧カメラ←同上
 ⑨グーグルマップ、乗り換え案内などの移動支援 ←毎日ではないが必須。
 ⑩エンターテイメント(主にスポーツの動画と音楽、ゲーム)←時期による。必須。
 ⑪アプリ(チケット・トレーニング記録とか)←あんまりない。代替手段あり。
 ⑫読書←ほとんどないし、基本的には他でやってる。

 

マッピング整理すると、おおよそこんな感じかと。。

f:id:kenjimatsuki:20170115112024j:plain

まぁ、写真を撮るときに、携帯でサッ撮れると便利だけど、それ以外はスマホでもできる機能であって、本当はそうじゃない方がいい機能が多い気がする。

 

なので、冷静に考えて、携帯する通信機器は、
・機能としてはネットさえ使えればだいたい良いし
・ポケットに入らない大きさにしたら、同じ事故が起こらないので
次に買うのは、iphoneじゃなくて、ipadのほうがいいのでは?と思う。ipadで写真も撮れる。添付の写真もipadで撮ったし。

 

理論的には納得しているけど、ちょっと不安なので、、、

本当にiphoneからipadに乗り換えても大丈夫か、ご意見頂きたいです。苦笑

こころが折れてしまう人を減らすために何ができるか、について

同じような仕事をしていても、こころが疲れて折れてしまう人とそうでない人がいる。身近にいるこころを健康に保っている人(園長)に聞いた話がとってもいい話だったので備忘も兼ねて整理。

 

 

おじ「同じ仕事をしててこころが折れてしまう人とそうでない人がいるじゃないですか。園長は、ま、疲れてはいると思いますが、折れてはない。こころが折れてしまう人と、園長との違いってなんだと思います?」

 

園長「いきなりですね(笑)。私も折れそうですよ。ま、園長にまでなったらもう病まないですかね。ある程度は自由になるので。でも、そうですねぇ、同じ職場環境で病む人とそうでないがいたとしたら、、病む側の人は仲間を信頼していない、って感じですかね。」

 

おじ「ほう、、もうちょっと詳しく教えてもらっていいですか?」


園長「私が見てきたこころが折れてしまう人って、相談することが上手じゃない人が多かったような気がします。」

 

おじ「ほうほう。」

 

園長「病んでる人を『責任感が強すぎる』って表現されることが多いですよね。責任感が強すぎるから、できないことがあってもそれをやりきろうとして頑張って折れちゃう、みたいな。あれは私はよくないと思います。もっと正直に『自意識過剰』って表現したほうがいいと思います。」

 

おじ「でも、病んでる人に『君、自意識過剰だね』って言いづらい。。」

 

園長「その人に直接言う必要はありません(笑)。でも、その人の責任は、その人のポジションで仕事をすることなので、そのポジションを埋められなくなるのは責任放棄だと思いますよ。しっかり責任を果たしている人に対して失礼じゃないですか。病んでる人を責めてもしょうがないけど、病むこともよしとするような言い方は避けたいと思います。」

 

おじ「それは、、まぁ、、その通りですね。。」

 

園長「自意識過剰で仲間を信頼してない人は『自分が可愛いから』困ったことが起こっても他人に相談できなくて、できないことが積み重なっていって、周りが見えなくなるような気がします。」

 

おじ「自分が可愛いからって、そうですかね。どういうイメージですか?」

 

園長「具体的にいうと、自分が相談する姿がカッコ悪いからヤダとか、上司に相談したら怒られそうだからヤダとか、SNSではキラキラを演じてる自分ができないって言いたくないとか、ようは自分をよく見せられないことに対するストレスを避けようとしているっていうイメージです。」

 

園長「 仲間(はそんなことを思わないってこと)を信頼してたら相談しますよね?周りの人間にとっては、その人の仕事上の出来不出来なんか人間性のほんの一部くらいにしか思ってないし、その人のポジションを埋められなくなることの方が百倍困るので相談してほしいんですけどね。」

 

おじ「なるほど。」

 

園長「仕事って一人でできることが限られるじゃないですか。逆にいうと、一人でできないからみんなでやってる。だから『お互いさま』っていうことが基本的な姿勢だと思うんですよ。なので、困ってる人を見つけたら『手伝おうか?』って言う、困ったことが出来たら『手伝ってください』と言う、ということが仕事の基本だと思うんですよ。そういう信頼関係が職場でできてると、病む人が少ないと思いますね。」

 

おじ「へぇ、、さすがですな。確かにそうかもしれませんね。」

 

園長「電通さんがそうかどうかは知りませんが、本当にブラックだったら、それでも病むと思いますけどね(笑)。相談しても『知るか、ボケェ』って怒られるとか。」

 


おじ「ま、そうですね。あと、、こころが疲れているというか、痛んでいる人の種類として、折れてはないんだけど攻撃的になっちゃう人もいるじゃないですか?病ます側みたいな。どっちかというと、そっちの方が深刻かなと僕は思うんですけど、それってどう思います?」

 

園長「それも、、根底にあるのは自分が可愛いってことで、表出の仕方が、他人に求めすぎって感じですかね。」

 

おじ「どういうイメージですか?」

 

園長「仲間に対して『こういうことをやってもらえない』っていうマインドが大きいと、不満ばっかりたまると思うんです。例えば『何回言ってもダメ』とか『あの上司は能力もマインドもイマイチだから一緒に働きたく無い』とか。。私は、仲間は信頼はするけど、結局は他人なので、その人が自分のために何かをやってくれるとか、自分が一度伝えたことを間違いなく遂行できる、とかは期待しない方がいいと思ってるんです。そうだと不満もたまらない。『結局は他人』という言い方はあまり好きではありませんが、それが『その人を尊重する』ということだと私は思います。」

 

おじ「ほうほう。」

 

園長「だから『その人はその人のために生きてる』っていうことを基本理解にして、自分を手伝ってもらえる時間もある、共有する目標のために一緒に働く時もある、くらいに考えた方が、現実の姿に近いと思ってます。」

 

おじ「へぇ。。すごいね。。」

 

園長「だから、何かをお願いする時にも『だ・か・ら・さ!!(怒)』みたいな話し方じゃなくて、その人が自らそう動きたくなるようにコミュニケーションをとった方が建設的だと思いますね。『私はデキるのに』とか『私はアレをしてあげてるのに』とかは、相手には全く関係ないし、逆に迷惑だったりすることもある。病ませる側の人の根底にあるのも、やっぱり自分が可愛くて他人のことを信頼してないってことだと思いますね。」

 

おじ「・・(こころが痛くなってきた)・・」

 

園長「やっぱり、一人でできることが限られているからみんなで仕事をしてるってところに帰着すると思うんです。なので、偉くなればなるほど自分が相手のために役に立っているのかという観点から思考を始めることを示さないと、職場内でのギブアンドテイクが成立しなくなっちゃうと思いますね。そのギブアンドテイクのキャッチボールが円滑に出来てくると病む人が少なくなると思います。」

 

おじ「なるほど〜、さすがですな〜。」

 

園長「そんなこと無いです。園長ですから。」

 


おじ「つまり、自意識過剰で仲間のことを信頼出来ない、他人に求めすぎ、ってことが、こころが折れたり傷んだりしてしまう原因だとすると、僕たちはどう行動すればそういう人たちを減らせると思いますか?何かできることがある、と思うことも僭越(せんえつ)かもしれないけど、もし、彼らのために何かできるとしたらなんだと思います?」

 

園長「それは、、こころが折れたり、痛んでしまってからは難しいですね。折れてる人に何を言ってもその人の中に入っていかないし、更に追い詰めちゃったりしますもんね。怒ってる人に『信頼してください』って言っても『できるか、ボケェ!』ってなりますよね(笑)。」

 

おじ「なるなる(笑)。」

 

園長「とすると、やっぱり、未然に防ぐってことだと思います。こころが疲れる前に信頼関係を作る。具体的には、『お互いさまの精神』で、困ってそうだったら声をかける、困ってなさそうでも困ってることがないか声をかける、ってことですかね。」

 

おじ「案外普通のところに帰ってきましたね。」

 

園長「そうですね。でも、そういうことなんじゃないでしょうか。『私はあなたを受け入れます。私はあなたの役に立てていますか?』っていう投げかけを繰り返すってことでしょうね。あ、あと、私が気をつけていることがあるとしたら回数ですね。偏らせない、深くより回数、っていう感じ。」

 

おじ「どういうことですか?」

 

園長「自分の子供でもそうですけど、やんちゃで気になる子って、叱ることが多いので接点が多いじゃないですか。逆にちゃんとしてる子って接点が減る。でも、表面上はちゃんとしてても、抱える問題の数は大体同じって考えたほうがいいんですよね。普段気にしてないので、問題が出てきた時にはすでに深刻になってしまっていたりする。なので、みんなに満遍なく声をかけるように、なんとな〜く回数をカウントをしてます。」

 

おじ「へぇ、、すごい。深くより回数ってのは?」

 

園長「一回のコミュニケーションで問題を解決しきろうと思わないって感じです。少しずつ少しずつ関係を作っていくイメージ。なので、一回あたりの声がけはすごくライトなものにしています。軽くすると回数を稼げますよね。その方が信頼関係を作れると思います。飲みに誘うよりかはランチに誘ったり。全部全力投球だと、こちらも疲れちゃいますしね。」

 

園長「あと、どんなに冷静に理解してても、私も人間なのでやっぱり怒っちゃうこともありますよ。なので、定期的に『自分はみんなの役に立てているのか、傲慢になってないか』っていうことを落ち着いた環境で内省する時間をとってますね。で、それでも叱らないといけない相手には、きっちり叱ります(笑)。」

 

おじ「なるほど〜、すごいすね〜、尊敬します。」

 

園長「でしょ。なんてったって園長ですから、私。」

 

 

なんか、途中で自分の悪いところを指摘されたような気もするけど、それでも今後の具体的な行動に移せそうな学びがありました。

 

以上です。

国内MBAは役に立つのかどうかについて

最近、話題になった記事を読んだ方(かた)から
MBAってとったほうがいいですか?国内のでも役に立ちます?」
と聞かれることがたまにある。

toyokeizai.net

本音は、
「それはあなた次第です。」
です。だって、その人の人生の目的がわからないので。


でも、いい機会なので、自分にとって、グロービスMBAはどうだったのかを整理したい。今後聞かれたら、この時点での頭の整理だとURLを共有しよう。

 


結論として、基本的には学位そのものには価値はないと思う。

ただ、グロービスであっても無くても、MBAであっても無くても『目的に向けて学ぶこと』に意味がないわけない
なので、勉強したいことあれば、それがMBAでも医師免許でも茶道でも農業でも、なんでもやればいいと思う。

さらに言えば、個人的には『役立つからやる』より『やりたいからやる』という方が本質的だし、ちゃんと勉強して在学中に周りにも迷惑をかけないと思うので、他人の意見が気になるくらいならやめといた方がいいと思う。

 


なお、グロービスとしては主に得られることを『知』と『志』と『仲間』の3点としている

mba.globis.ac.jp

さすが田久保さん、、、簡潔にええこと言わはる。

 


で、自分にとってはグロービスMBAを通して得られたものは
『”かくありたい自分の将来を作るのは自分の行動しかない”ということを強烈に自覚した』
というイメージ。

そう自覚できた要因を自分なりに3つに分解すると、こんな感じ。
①かくありたい自分とのギャップに危機感を感じる
②自分から見える世界が今のように回っている真相に近づく
③学び方を学ぶ


①かくありたい自分とのギャップに危機感を感じる
・とにかく学習で知的にコテンパンにされる
・自分が足元にも及べてない同世代と接する
・自分のFMVを自覚する。

社会人になってある程度すると、自分なりの勝ちパターンができて、それを回していくことで『出来てる感』を覚えるけど、それが『本当に限られた環境の中での茹でガエル状況』だということを痛感する。
世の中はどんどん新しくなっているので、ちょっとやそっとの成長だと確実に置いていかれるし、ましてや家と会社と飲み屋を顔見知りと往復する毎日なんか過ごしてたら、自分のFMVがすごい勢いでどんどん落ちていくことを知る。
また、具体的な転職オファーをもらったり、自分なりに他人より上手にできることを自覚したりすると『悪いことさえしなければ、健康であれば生きてはいける』ことを確信できる程度の”自分への値付け"ができるようになる。
想像よりイケてない自分は、逆に言うと想像より成長の余地が大きいってことにもなる。目の前の風向きに振り回されず長期的に考えてすべきことを精一杯やらないと、かくありたい自分に近づけないことを感じる。

 

 

②自分から見える世界が今のように回っている真相に近づく
・知らなかったたくさんのことを学んで、表出した事実の理論的な背景を想像できるようになる。
・自分に起こることがらについて、他人のせいにすることが無くなる。

自分の周りで起こっていることの理論的な背景を知ることができる。マーケティング上の狙いとか、会計上の不正がなんで起こってしまうのか、人の性(さが)も含めて。
で、結果とはそれまでの仕込みが表出したことだけであって、本当に大事なコントロールできることは『どういう風に仕込むか』ってことだと知る。
すると、自分に対して起こる事柄も、よくよく考えると、自分の行動が起点になっていることを感じられるようになる。誰かのせいでなにかが起こることはあるけど、それを自分に影響させるかどうかを判断するのは自分以外にない、って感じ。
つまり、自分の状況に不満があったり、何かを変えたいなら、ただ嘆いたり、誰かを恨んだりしても無駄で、自分が何か行動しないとなにも起こらないというところに帰着する。
で、それが自分にとっての世の中だということを知る。

 


③学び方を学ぶ
・経営に関する基礎知識を体系的に学び、知らない事の調べ方の想像がつくようになる。
・自分が知らない事へ造詣が深い友人が多数できる。

経営に関する古典的名著は一通り読むことになった。経営に関する知識のつながりもある程度は意識できるように訓練された。
ので、知らない事柄が出てきても、知識の組み合わせで、なんとなくあたりをつけられるようになったと思う。
さらに、自分が不得手なことについて、助けてもらえる友人ができる。でも、いつか助けてもらうことを想像すると、そのためには自分が何かでその友人の役に立てるようになってないとGive&Takeが成り立たないので、自己研鑽を続けないといけなくなる
『I have to learn how to learn.』って、同期の親友が在学中から言ってたけど、今、思い出した。。
そういう友人ができることって、やっぱり貴重。


で、まとめると、

自分は思ってたよりイケてないようなので成長したいし、
そのためには具体的な行動が必要で、
行動の方向性も大体のあたりが付くので、

かくありたい将来を作るためには、自分が具体的な行動をフルスイングでやるしかない

と私は思えた、ってことのようです。

 

 

なお、記事で指摘されてる様なフレームワークや横文字も覚えましたが、私はほとんど使いません。成果が出やすい様に出しどころや使い方を判断することこそ知識の真髄だと思うので、受け取り側にとって不適切な知識を披露したなら、それは知識の体得が出来てない人だってことでしょう。

そういう意味では、国内MBAにとって知識の体得は副作用の位置付けで、本質的な価値は生き方を学ぶこと、なのかもしれないと整理しながら思いました。

 


とはいえ、これは私のグロービスMBAへの経験なので、
・経営的な知識も人脈も間に合ってます
・毎日、血反吐を吐くぐらい努力して、痛みを感じるほどの成長をしてます
・自分の人生は自分しか作れないってことは知ってます
という方(かた)には、グロービスMBAは合わないかもしれませんし、他の国内MBAには私の所感は当てはまらないかもしれません。

 


以上です。

『この世界の片隅に』を観て

先日『この世界の片隅に』を観た。

konosekai.jp

見終わった後、圧倒されて放心した。ここまでの感動はあんまりないので、何に圧倒され、放心したのかを整理して書き残しておきたい。

 

1.戦争を生活面から感じることができたこと

(当然ながら)僕は戦争を体験してない。戦争や平和に関する業界にも属していない。
なので、第二次世界大戦大東亜戦争は歴史であり勉強の対象ではあるけど、今のところ自分の人生には関係ないことだと思ってる。

さらに、僕が知る限り、戦争にまつわるお話は戦争の中にいる人や場面を描いていることが多いと思う。そこには生死を掛けた強烈なドラマがあると思うので、そりゃそうだろうと思う。

だから、戦争という歴史的事実から生活臭を感じたことがあんまり無かった。


一方、この作品の中では、主人公の日常生活がとっても丁寧に描かれていて、その生活が日本の状況に合わせて少しずつ変わっていく様子がうかがえた。

で、あの時代にあってさえ、あんまり戦争に現実感をもてない一般人がいて、その一般人に戦争が牙を剥く時、何万人もが一瞬で亡くなる歴史的悲劇より、手を繋いでいた一人の人が居なくなることの方が個人的には悲劇性が高い、ということを生々しく感じた。


そういう感覚で「あぁ、戦争ってこういう日常だったのかもしれない」と登場人物に自分に重ね合わせて戦時を感じ、世界観に入り込めたんだと思う。

 


2.全体が悲劇でなく、日常(ちょっと喜劇)ムードであること

主人公がちょっとぼーっとしたキャラクターで、日常のおっちょこちょいが作品全体を和ませていた。
絵も全体的に穏やかだし、BGMも優しくて、戦争をテーマにした作品であることを忘れるくらい。

 

戦争を日常から描いた名作はあるけど(火垂るの墓とかはだしのゲンとか)、終始、見る側に高いエネルギーレベルを要求する作品が多いと思う。

まぁ、時代が時代だし、自分が生きることだけに精一杯だった人が多くいた時代と思うので、それはそれで真実なんだろうけど。

でも、そういうのは自分の心と体が健康で、ハイエナジーな作品を観るモードになってないとためらっちゃう。その感じがこの映画には無い。あくまでいつもの通り、毎日を工夫して生きる姿が描かれているので、大半の時間はリラックスして見てられる。


で、そのいつもはヒラヒラしている主人公や雰囲気が、大事なところでは本当にシリアスで挑戦的な雰囲気になる。そのギャップが、事件や悲劇のインパクトを強めてた。

 

全体的にのんびりと和めて、ちょっと笑えて、だからこそ本当に大事なところですげー泣ける、っていうストーリーに嗚咽(おえつ)するくらい感動した。


3.のん

映画の雰囲気、主人公のキャラにどハマりだと思う。想像をはるかに超えてた。
上手いを通り越して、途中から絵が話しているようにしか聞こえなかった。


彼女の演技無くして、この作品の完成は無かったと思う。
いや、制作側の思惑やアウトプットが全てがはまって、この完成度を産んでるんだろうけど、それでもやっぱり彼女の演技を特筆せざるを得ないと思う。
100点満点中、500点。いや、5000点。


何が良かったのか、反芻するのにすごく時間かかったけど、おおよそこんな感じ。

 


とにかく、必見だと思う。個人的には『君の名は。』より良かった。今年で最高。

もう一回劇場で観たい。

 

以上

クリティカルシンキングが必要かどうかについて③

今回は

「理論的に詰めた案件が、上司や関係者の感情によって承認を得られない時って多くないですか?それでもクリティカルシンキングは必要なんでしょうか?」

のような、

 

クリシン出来そうな場面で、うまく活用できていない状況によくみられる特徴的な課題について整理したい。


結論としては、3つの原因から来てることが殆どだと思う。
①関係者間で目的が合ってない
②論点の突き詰めが足りない
③自分が正しいって言いたい

 


新規事業提案を却下された場合を例に、整理してみる。


①関係者間で目的が合ってない、について。

関係者間で『何がしたいか』の目的が合ってないと、会話が食い違う。

例えば『新規事業を提案しよう!』という組織の本当の目的が
・既存技術や資源を活かした新規展開を求めている、のか
・既存顧客に提案する新商品を求めている、のか
・想定以上に出てしまう利益を(税金で払うより)使ってPRしたい、のか
ニュアンスによって、提案する事業の種類も大きさもスパンもぜんぜん違う。


もし、意思決定者が
『来年度に利益が出る手軽な改善提案が欲しい』
と思っているのに

提案者の方が
『まだ見ぬ優れたアイデアを実現させて、より良い世界を実現したい(遠い目)』
とか言ってたら、そりゃ、話が合うわけない。

 

なので、まず、お互いに「どうなれば嬉しいのか」を合わせることが必須。
(クリシン的にはイシューを合意して決めるってこと。)

 

②論点の突き詰めが足りない、について。
『ものわかりが悪い』と思われることを恐れて、突っ込んだ確認ができてないことが多いと思う。

 

例えば、
「市場が見込めない。」
という理由で新規事業を却下された場合

「そうですか、市場が見込めないですか、、」
って『市場』っていいうビッグワードでわかったような気にならず

 

「市場っていくらあればいいの?いつのこと?エリアは?」
という突っ込んだ質問をその場でしないといけないと思う。


じゃないと、本当に市場がないと評価していいのかの合意ができないし、改善提案もできない。さらに、次回以降に他の案を持っていく時に同じ轍を踏む可能性があって、お互いにとって不利益。

 

また、
「ウエ(上位職のこと)が嫌がるから、この件は無し。」
という理由で却下された場合、
「そうなんですね〜、、。」
と同じく”ウエ”というビッグワードで引き下がるんじゃなくて、

 

「ウエって具体的に名前をあげると何のこと?意思決定機関?それとも個人?なんで嫌がってるか聞いた?いつ聞いた?」
って確認しておかないと、これまた改善を提案できないし、次回以降に同じ轍を踏む可能性が残る。

 

これは、ものわかりが悪いおバカと思われることを避けるために、思考停止してるんだと思う。

なので(結果にフォーカスして)自分がアホウと思われることなんか恐れず、バシバシ質問・確認しないといけないと思う。

 


③自分が正しいって言いたい、について。

例えば、前述の

意思決定者が『来年度に利益が出る手軽な改善提案が欲しい!』と思っているのに

提案者が『まだ見ぬ優れたアイデアを実現させて、より良い世界を実現したい(遠い目)』
の場合、

 

「うちの会社は古くて、最新の技術や流行に理解が得られないんですよ〜」
と『自分が正しい』『正しいことやってる』っていう主張をただ繰り返して、更なる行動を取ってないことがある。

 

これは現実的に効果を生む行動をとることよりも、『自分は正しい、って言うこと』が目的化してしまってるってことだと思う。

 

本当にすべきことは
『今、すべきことを合理的に導き出して、それを実行し、実現すること。』
なので、

 

現実を変えない愚痴やジコマンに酔うのは早く卒業して、面倒くさがらず、自分のアイデアが本当に正しいのかということについて、検証を始めた方が合理的だと思う。
で、やっぱり正しければ、それを通すために、作戦を考えればいい。


なので、クリシンがうまく使えてないと感じる時には

結論③
・関係者間の目的が合致しているか
・食い違っているところについて、手触り感があるまで突きつまっているか
・自己承認欲の暴走が、本質的で効果的な行動を阻害していないか
を確認する。

 

で、課題をプロットしてみたら、改善への糸口になるのではないか、と思う。

f:id:kenjimatsuki:20161130214309j:plain

もし、全部乗せの場合は、、、ね、、

 

 

クリシンシリーズを振り返って、、

クリティカルシンキングが必要か?という問いに対しては、

結論①
クリティカルシンキングは必ずしも全ての状況で必要ではないが、使いこなせる道具として持っておかないと(ビジネスパーソンとしては)話にならない。

 

どういう時にクリシンが使えるかというと、

結論②
常にクリシンスイッチをONにして、全てのことをクリティカルに見る心構えでいるべし。なお、本当に全てをクリシンすると大変なので、クリシンしないでいいことを早く判断できる観点を作って、クリシンすべきことに時間とエネルギーをフォーカス出来るようにするとよい。

 

そして、クリシンがうまく使えてないな〜と感じる時には

結論③
・関係者間の目的が合致しているか
・食い違っているところについて、手触り感があるまで突きつまっているか
・自己承認欲の暴走が、本質的で効果的な行動を阻害していないか
を確認するとよい。

 

以上で、クリシンが必要かどうかについての頭の整理を終えたい。

人に伝えることを通して自分が学ぶことができた、いい機会でした。 

クリティカルシンキングが必要かどうかについて②

今回はクリティカルシンキング(以下、クリシン)が使える範囲について整理したい。

 

自分の場合は、常にクリシンスイッチをONにしている感じでいる。イメージとしては超サイヤ人の第一段階のような感じ。(別に強くはならないけど。)

matome.naver.jp

 

日常の気づきについても突き詰めて考えることで、クリシン力の基礎訓練になるし、気づきも多い。慣れてくると、初めてクリシンをした時に感じる軽い興奮状態や好戦的性格をコントロールできるようにもなる。(ここが特に第一段階に似てて重要。笑)

 

で、何かあったら、2つの観点で順番に評価して、”クリシンしないこと”を瞬間的に判別している。

【観点1】自分に期待されているのは判断か、共感か。
【観点2】価値観(好みや感情)で判断するのか、定量的な比較で判断するのか。

f:id:kenjimatsuki:20161114103820j:plain

 

【観点1】
まず『自分の役割は、判断か共感か』を判断する。
『自分の役割が共感すること』なら、クリシンスイッチを切る。(クリシンしない。)

自分の役割が判断なら

 

【観点2】
次に、その判断は、
価値観『だけ』で判断する事柄ならクリシンスイッチオフ!

次に、

定量的な比較『だけ』で判断することでもスイッチオフ!

 

すると


私がクリシンする範囲は、、
『価値観による判断』と『定量的な比較』をして『判断すること』が自分の役割の場合

となる。

 

--例 ココカラ-- 


【観点1】の例
・部下による同僚に対する不満。
「あの人、いつも定時で帰るんですよ。俺なんか毎日22時なのに、、。」
→本音はきっと『私をもっと見て評価してください。』っていうこと。この場合、自分に期待されている役割は、「なんで22時までいるの?どうしたいの?」と突き詰めることではなく、共感すべきところで共感すること。そういう時は、クリシンスイッチを切って、誠心誠意、話を聞く。

 

【観点2】の例

・予算上の重要な方針の優先順位。(価値観だけの判断)
「顧客、従業員、株主、利益、何が一番大事か?」
→全部大事だし、全部繋がってる。優先順位は状況に合わせて、好みでつければいいので、こういう時はクリシンスイッチをオフに。スイッチを切ったら、自分の価値観とそれによる判断を伝えるにとどめ、他人の価値観には踏み込まない。同時に、自分の価値観にも踏み込ませない。←余談だがここ大事)なお、場面によるけど、僕は顧客が一番好き。

 

・機能が同じ機材のどちらを買うか。(定量比較だけの判断)
→機能が同じなら、つべこべ考えずちゃっちゃと決める(安い方を買う)。

 

--ココマデ--

 

自分は、基本的には全てクリシンで考えることを前提にして、上記の2つの観点で、突き詰めて考えなくていいことを瞬間的に見分けることをすごく大事にしている。

 

クリシンを真面目にやるって、意外と大変で、時間もエネルギーを使うので、考えなくてもいいことまで考えてたら、1日に何時間あっても足りないし、昼前にヘトヘトになっちゃう。


なので 、クリシンが使える範囲については

 

結論②
→常にクリシンスイッチをONにして、全てのことをクリティカルに見る心構えでいるべし。なお、クリシンしないでいいことを早く判断できる観点を作って、クリシンすべきことに時間とエネルギーをフォーカス出来るようにするとよい。

とする。

※自分なりの観点を作るのが難しければ『自分への期待役割 × 判断基準』で試すのがオススメ。

 

 

次は、そもそもの質問
「理論的に詰めた案件が、上司や関係者の感情によって承認を得られない時って多くないですか?それでもクリティカルシンキングは必要なんでしょうか?」

のような、クリシン出来そうな場面で、うまく活用できていない状況によくある特徴的な課題について整理したい。

クリティカルシンキングが必要かどうかについて①

大学院でクリティカルシンキングクラスのお手伝いをしたり、社内研修の講師をさせてもらったりすると、たまに、こういう質問を受ける。

 

「理論的に詰めた案件が、上司や関係者の感情によって承認を得られない時って多くないですか?それでもクリティカルシンキングは必要なんでしょうか?」

 

つまりクリティカルシンキングは本当に必要か?』
といった主旨の質問・・。

 

伝える側の人間に、伝えた内容の意味があるのかを問うって、どういう神経してんだろう?、、とも思うけど、こちらの伝え方が悪かったのかなぁ・・と、自分の力不足を感じる。

 

(自分自身、まだまだ道半ばではあるが)今後、同じ質問を受けた時に分かりやすく伝えたいので、この質問への回答の準備として、考えを整理したい。

 

 

・そもそも、クリティカルシンキングとは何か?

 

wikipediaより
あらゆる物事の問題を特定して、適切に分析することによって最適解に辿り着くための思考方法である。ただし、「批判」の定義については論者によって異なり、多くは単に批判的になるのではなく、自身の論理構成や内容について内省することを意味する。

批判的思考 - Wikipedia

 

グロービスより
健全な批判精神を持った、客観的な思考。
具体的には、論理思考と、思考の効率を上げるための方法論(テクニックやフレームワーク)、そして正しく思考するための姿勢(心構え)を組み合わせることにより、「物事を正しい方法で正しいレベルまで考える」ことを目的とする。

クリティカル・シンキングとは | ビジネススクールならグロービス・マネジメント・スクール


近年『ロジカルシンキング』とともに注目されている手法なので、いろんなところがいろんな定義をしているが、私は

『分かっててもやってしまう思考停止を回避して、合理的な解を導き出す考え方』

だと理解している。

 

いろんなところのいろんな定義やテクニックには若干の違いがあるものの、全てに通底する真髄は

「(あたりまえに見えることに対して)それ、ホント?」

と疑うことで、

思考のステップを一つひとつ突き詰めて行くこと

だ(きっと)。

 


クリティカルシンキングは道具だ

 

クリティカルシンキングを他の何かに例えるならば、レントゲンに似ていると思う。

レントゲンが体表からは見えない病巣を見つけ出せるように、クリティカルシンキングを上手に使うと、表層的には見えない根源的課題を見つけ出すことができるからだ。

 

レントゲンもクリティカルシンキングも、病気を見つけたり合理的な解を導くための道具だ。課題解決をするのは人間であり道具ではない。

 

例えば、
「レントゲンって必要ですか?レントゲンで癌が治りますか?」
という問いには
「レントゲンはあると便利だよね?癌は治せないけど、どこを切ればいいかはわかるよ。」
と答えるのと同じように、

 

クリティカルシンキングって必要ですか?課題解決できますか?」
という問いには
「使いこなせると便利だよ。課題解決はあなたがすること。そのための道具がクリティカルシンキング。」
と答えたい。

 

つまり、

クリティカルシンキングで課題解決が出来るのか?を問うクリティカルシンキングを使えばなんでも整理できると過度の期待をしている)人は、『クリティカルシンキングは道具だ』という理解が浅い。

(※自分はこの点での事前説明が至ってなかったんだなぁ、と猛省。。)

 

 

また、クリティカルシンキングがどれくらい大事な道具かというと、その点においても、レントゲンに似ていると思う。

基本的な健康診断でさえ、もれなくレントゲンが準備されているように、課題の根本を突き詰めて精緻に握るためにはクリティカルシンキングが必要だからだ。

 

 

ビジネスの場ににおいて『今、答えを出す課題は何なのか?』『今、一体、何を話しているのか?』『選択肢を冷静に比較して判断しているか?』という突き詰めができてないまま、本質的な課題を捉えずダラダラと時間を過ごすのは、無為の極みだ。

そんな人と誰が一緒に仕事をしたいと思うだろう。。

 

なので、、 

結論①
クリティカルシンキングは必ずしも全ての状況で必要ではないが、使いこなせる道具として持っておかないと(ビジネスパーソンとしては)話にならない。

とする。

 

なお、水虫の治療にレントゲンが必要ないように、クリティカルシンキングが活きないシチュエーションもある。道具には使うべきシチュエーションがあって当然だ。

なので、次回は、クリティカルシンキングという道具を使える範囲について整理したい。

 

東急電鉄の動画広告への批判について(続)

本件、改めて頭の整理。

 

違和感の最初は、
『電車内で化粧をする人はみっともない』
というメッセージに対して、電車内で化粧をしない人が、イラッとするのは何故か?


例えると、、
バイキンマンに注意したのに、アンパンマンが怒ってるのはなぜか?

・大阪人への注意に対し、京都人が怒るのは何故か?


みたいな事に違和感を覚え、状況を理解したいので、

①『内容はいいけど、ダンスと歌が(下手で)気持ち悪い』派
②『化粧ぐらい、いいじゃん』派
③『(本当はたまにちょっとはしちゃうんで)ちょっとくらいは許してあげなよ』派
④『他にもっと注意すべきことがあるだろう』派
⑤『お前(電車会社)にみっともないとか言われたくない』派

という方々がいる整理で自分としては納得したんです、、

kenjimatsuki.hatenablog.com


が、心ある複数の友人・知人から、
『お前はなぜ女性がイラッとしたのかのポイントが(根本的に)分かってない。』
と指摘を頂きました。すいません。ありがとうございます。

※本当は一つずつ、お礼・お返事がしたいのですが、文章だとニュアンスが伝わらず、さらなる議論を起こしかねないので、今後、直接お会いした時にお礼を言います。


頂いたご指摘について、改めて、自分なりに咀嚼し、どこにイラッとポイントがあるかを整理すると、

 

『電車内で化粧をする女性はみっともない』という動画広告に対して
・メッセージとして合意できるかどうか
・伝え方に問題を感じるかどうか
の2軸でイラッとポイントが整理できるのではないかと、感じています。

f:id:kenjimatsuki:20161027180405j:plain

 

A.メッセージには同意できるが、伝え方(の、コンテクスト)が悪い
 数あるマナー違反・迷惑行為の中から『女性の電車内化粧』が優先して上げられることに強い違和感がある。マナー違反・迷惑行為としては、酒酔い、優先席、音、食事、とかもっと迷惑なのがあるのに!そっちはみんなおっさんじゃん!※前回整理の④に似てる。

 

B.メッセージいかんにかかわらず、伝え方(の、コンテンツ)が悪い
 歌、ダンスが気持ち悪い、下手。
 直球で正しい事を指摘するのは反感を生む。受け手が素直になれるような工夫が必要だと思う。(例えば、東京メトロのように)※前回整理の①

 

C.メッセージには同意できないし、伝え方(の、コンテクスト)も悪い。
 『電車内で化粧をする女性』を批判する事に、女性への差別意識を感じる。女性がみっともないことをすることの方が、男性のそれよりもみっともない、という意味を含んでいるのでは?
 ※なお、Cのイラッとを感じる人はAの『優先順位が変』というイラッとも併発。

 

D.伝え方いかんに関わらず、メッセージに同意できない。
 他人の所作を見て、快・不快を覚えるのはしょうがない。が、違法や迷惑行為でなければ、その人の行動変容を求めるのは他人への関与欲が強すぎる。


上述の整理より、人をイラッとさせるかどうかについては

『メッセージの内容<<伝え方』

であると感じました。

 


なお、私個人はDの考えに近いものの、皆がみんなマナー違反をスルーすると、秩序や文化が保てないと思うので、マナー違反については何らかの『良い伝え方』で注意喚起した方がいいと思います。

 

ただ、その時に、

アンパンマンに怒られないようにバイキンマンを注意する」

事に気をつけなければならないのは、大変だなぁと思います。

 

あと、自己承認欲が暴走している人と、どこまで本気でお付き合いをするかという事についても、考えておかないといけないなぁと感じました。

 

以上です。

東急電鉄の動画広告への批判について

東急電鉄の動画広告に(炎上気味で)注目が集まってるらしく、ちょっと違和感を感じるので、頭の整理。


個人的に、気になった意見(スタンス)は、『私は電車内で化粧をしないけど、それでもこの広告は不適切だ』という意見。

・車内化粧をする→車内化粧を続けたいので批判する。
・車内化粧をしない→今後もしないのでスルー。
の2パターンは、ロジックとして合ってると思う。

・車内化粧をする→今後もするけど今回の広告には意見無し。
は、それはそれで違和感なし。

 

とすると、
・車内化粧はしないけど、この広告は不適切だと思う!
は、ロジックとしてやっぱり違和感を感じる。。

f:id:kenjimatsuki:20161026142050j:plain

 


いくつか、批判のツイートや記事を見てみて、意見を5つにカテゴライズしてみる。

 

個人的に強い違和感を感じる順(降順・どんどん違和感が強くなる)

①『内容はいいけど、ダンスと歌が(下手で)気持ち悪い』派
②『化粧ぐらい、いいじゃん』派
③『(本当はたまにちょっとはしちゃうんで)ちょっとくらいは許してあげなよ』派
④『他にもっと注意すべきことがあるだろう』派
⑤『お前(電車会社)にみっともないとか言われたくない』派

 

次に、感じる違和感を整理。

 

①『内容はいいけど、ダンスと歌が(下手で)気持ち悪い』派

ダンスとか歌って個人の趣向があるので、なんとも言えないけど、広告内の女の子もその筋のプロじゃなさそうなので、ま、そう感じても妥当だと思う。

→表現の上手下手はわかんないけど、主張は理解出来る。

 

②『化粧ぐらい、いいじゃん』派

電車内で化粧をするのに全く違和感がないのは、個人の価値観なので、それは問題ないけど、もし、周りに嫌がる人がたくさんいるなら、電車内での化粧はやめた方が良いと思う。

→主張は幼いけど、論理的な違和感はさほど感じない。

 

③『(本当はたまにちょっとはしちゃうんで)ちょっとくらいは許してあげなよ』派

電車内での化粧はやめた方が良いってわかってんなら、やめたほうがいい。化粧することをやめた方が良いってわかってんなら、広告のメッセージを批判するのはロジック破綻してる。

→ちょっと違和感が大きくなる。

 

④『他にもっと注意すべきことがあるだろう』派

誰が何をするかは、その人の自由意思なので『他にもっとすることあるだろう?』は完全に余計なお世話。言いがかりだと思う。特に「海外は、、」とか、(現実的には選択できない)他の事例を出して『わかってる感』を出す人は、自己承認欲が暴走してるだけだと思う。
→違和感が閾値を超えて、気持ち悪さが出てくる。

 

⑤『お前(電車会社)にみっともないとか言われたくない』派

電車内のマナーの事なので、電車会社が言って何の問題があるか不明。例えば、飲食店内のマナーは飲食店から注意されて当然。本人が、広告内で『みっともない』とされている車内化粧をしないなら、みっともないと言われてないので、何を勘違いして『みっともないと言われた』と感じているのか不明。

→正気を疑うレベル。

 

なお、車内マナー広告においては、東京メトロさんの取り組みが秀逸だと個人的には思います。


最後になりますが、私は電車内で化粧することに全く嫌悪感はありません。ただ、その場にいる人が嫌がるなら、あえてしなくてもいいんじゃないか、と捉えています。

 

以上です。

本を読む目的の整理

お勧めの本を聞かれることがあったので、何を勧めるか迷い、それをきっかけに本を読む目的について整理。本を読む目的によって、勧める本が違ってくると感じたので。

 


目的① 知識を得るために読む
 人事政策やマーケティングなどの仕事に使うものから、トライアスロンやキャンプの入門書など(自分が知らない)知識を得るために読む。
 この種の本は、自分が置かれた状況合わせて自分で選択する事が多い。個人的には経営に関するロングセラーな名著か、歴史に関する本を選ぶことが多い。

 

 経営に関する名著と言えば、たくさんあるけど自分にとってはこれ。

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)

 

 

 

目的② 頭の中を整理するために読む
 予めなんとなく分かっていることを、言語化するために読む。だいたい分かっていたり、行動できていることについてでも、表現が上手い人が切り口鮮やかに表現してくれていると、自分も更に認識しやすいし、人にも説明しやすい。
 この種の本は、話題になってる本の中で興味があるタイトルの本を選ぶことが多い。また、自分が信頼している人がSNSで推薦している本は、思考の癖が近いのか、この種の気づきが多いような気がする。

 

 自分にとってはこれ。

リーダーシップの旅  見えないものを見る (光文社新書)

リーダーシップの旅 見えないものを見る (光文社新書)

 

『嫌われる勇気』とかもこれに近い。

 

 

目的③ (実際に会う人の)人間理解のために読む
 会う予定がある人や、チームに新しく入った人について、その人を知るために読む。会う人が書いた本を読めば、その人が大事に考えていることや、経歴、好きな言葉づかいなどがあらかじめ分かって、話を進めやすい。
 新しく加わったチームメンバーが好きな本を知れば、その人が好む物語性や、どういうことに感動するのかを知れるので、会話をしやすくなる。なお、この観点では映画でも同じことが出来る。

 

 自分にとってはこの本。ちょうど仕事がうまくいかなかったときに読めたのがよかった。きらびやかに見える筆者の経歴の隙間にある挫折を知り、自分に当てはめることですごく勇気づけられた。通常、おすすめを聞かれた際には、自分自身の価値観を伝えるために紹介することが多い。

挫折力―一流になれる50の思考・行動術 (PHPビジネス新書)

挫折力―一流になれる50の思考・行動術 (PHPビジネス新書)

 

 

 

目的④ 純粋なる楽しみとして読む

 目的①~③で読んだ本の中で、特に面白かったものは参考文献に手を伸ばす事がある。で、その本自体が①か②に当てはまらなくても、物語として面白ければ、最後まで読む。

 

 自分にとってはこの本。ロシア文化を垣間見るだけでなく、そこにいる人たちが経験した歴史やそれによる葛藤の描写がすごく生々しくて圧倒される。ロシアを知るという①の目的で読み始めたけど、最終的には④の目的で大満足。必読の名著だと思う。

オリガ・モリソヴナの反語法

オリガ・モリソヴナの反語法

 

 

 

なお、最初の1章くらいを読んで、自分に合わないと感じた本は読むのをやめます。

 

以上。

お買い物についての頭の整理(車)

故(ゆえ)あって車を買うことになったので、頭の整理を記録。
 
 
僕は、小さい頃から車をかっこいいと思ったことがあんまりない。
だから、免許を取って車を運転しても楽しいと思ったことはあんまりない。
経済的に考えれば、車を買うよりもタクシーを使ったほうが合理的だと考えている。
技術的にも未熟なので、なるべくプロ(タクシー)に任せたい。
なので、車を買おうと思ったことが一度もない。
出来れば運転手さんが買いたい。
フルオートパイロットが欲しい。
 
 
例外として、高校生の頃から、ユーノス・ロードスターには憧れていたので、社会人になって、ロードスターに乗るために免許をとって、3年くらい乗った。
子供が生まれて使えなくなったので手放し、その後は車を買ってない。
 
 
ところが、
子供が4人になって、そろそろ末子が保育園にいくようになると、タクシー1台に家族が乗らないようになってきて、大誤算(苦笑)。
 
 
ざっと試算した感覚だと
 
 車体購入で100万円以上〜数百万円規模、
 保険や税金で約10万円/年、車検で約10万円単位/数年
 駐車場で数千円〜数万円/月、ガソリンや洗車で1万円/月。
 ランニング経費をならしたら、毎月数万円を固定費として使っている計算になる。
 
 タクシーとレンタカーなら
 これまでは、週に1、2回、1,500円分くらいのタクシーを使う程度。
 遊びに行く週末はレンタカーで1万円使ったとして、毎月3万円あればOK。
 家族全員でタクシーを使うことは少ないし、多めに見ても2倍にはならない。
 それに何より流動費。
 
なので、経済的な観点だけから見たら、タクシーを多用するほうがずぅっと経済的。
 
 
僕は都心に住んでて車を持ってる人は、毎日少しずつタクシー台を支払うのは財布がチクチク痛いから嫌なんだけど、車を買うような大きな買い物は感覚が麻痺するので、OKな感じになってるだけなんだと感じている。
注射は嫌だけど手術はいいか、みたいな感じ。
 
 
ただ、ここ最近、車が無いことで感じるのは、
①台風など、世の中全体が車を使いたい時には、不便。
 全然予約が取れないし、大雨の中タクシー乗り場で並ぶのは大変。
 
②長女が小学3年生になって、一緒になって遊んでくれるのはあと数年と予想。
 彼女のためにいろんな経験をさせてあげたいし、僕もたくさん思い出を作りたい。
 
③実家への帰省など長距離を車で移動できると楽チン。
 最近、子供が増えて&大きくなってきて大阪の実家への帰省(新幹線)は交通費だけで10万円くらいかかる。
 
 で試算すると、、
 タクシーとレンタカーを使いまくるのがなくなることで、毎月3万円の経費減と仮定する。
 加えて、年に2回の10万円の帰省交通費が半分くらいになると予想。
 
 すると、年間の経費削減額が
 △3万円 × 12ヶ月 + △5万円 ×2回 = △46万円 →毎月4万円程度節約?
 
タクシー2台使ったとしても、タクシーを使ったほうが安いんだろうけど、
それでも①と②の効果を考えると買ってもいいか、と結論。
 
 
早速、買う車の基準を妻と相談して決めて
①安全第一 → 国内メーカーの最新モデル
②乗車者数 → 3列目が快適に乗れないと長距離は無理 →ミニバン以上
③経費&エコ → できれば燃費がいい車 →新しいモデルのミニバン
 
検討、試乗の結果、
HONDA の STEP WGN SPADA Honda Sensingに決定。
幸運なことに、2016年度のモデルで白にするなら、、と、在庫の関係で30万円ほど割引にしてくれた。
 
日産のセレナも最後まで比較したんだけど、オートパイロットがイマイチ不便なのと、運転感が軽すぎるように感じたので、安全性の観点からSTEP WGNに決定。
営業の方は日産さんのほうがいい人だったけどね。
 
以上